親の介護、そして終えて。

親の介護→看とり→そして終えて。

親の介護が始まり疲れてた矢先に介護blogを発見。辛いのは私一人だけじゃないんだと。誰にも言えない相談できない、愚痴りたい!色んな思いをここで吐き出そう!
そして、親の病状の記録を取っていきたいと思います。


そして永眠後の悲痛な思いからの新たな出発。

胸のうち

12日、月曜日から母の入院が決まった。


私の肺炎とほぼ同時期に、母も右足が腫れ上がり劇痛を伴い未だに治らずにいてる。


その通院介助で何度病院に行き帰りしたことか。


三軒回ったが原因がはっきりわからず。


蜂巣炎?痛風?等々言われたが、はっきりわからない。


なので、入院して調べてみようとのことで今日の予約診で決まった。


家から車で1時間はかかるなー。


この年の瀬に迫ってきている時期に、これまた大変だ。


また毎日の病院通いが始まるよ。


うーん、なんだかなー。。。


もう疲れるというのも通りすぎてるなー。。。


頭の中も、もうなにも考えられないしー。


真っ白だー。


感情も無に等しいなー。


妹は再婚して、新居を構えて心に余裕が出来た中、お気軽に暮らしている。


殆ど何もしない妹だが、母の足の具合が悪くなってから、土曜か日曜日のどちらかに2度ほど実家へ来たらしい。


そのことが嬉しかったのだろう。


母は、また浮かれている。


私がどれ程尽くしてみても、母はいつも妹を見る。


虚しいねー。。。


父もそうだった。


妹を目にいれても痛くないほど可愛がっていた。


妹は、早くに家を出た私に変わり

親の愛情を独り占めにしてきたのだ。


妹は、31年間、親元にいた。


それに比べて私は20年にも足らないほどしかいなかった。


居なかったと言うより、居れなかった。


妹と私は、7歳の年の差。


10代に色んな思いをし、沢山の悲しい経験、辛い経験を1度に体験した。


そんな経緯もあり、親との間に随分の確執も出来、スムーズにいかなかった時期も長かった。


所謂、弾き飛ばされた存在。


私は、ひとり家族からはみ出していた。


離婚をして一人で暮らしていた頃にも、黙って家族旅行をしていたとか。


誘ってももらえず、声すらもかからなかった。


妹も離婚をした後、ひとり暮らしをしていたが、実家へよく晩御飯を食べに行っていた。


私は、妹ほどお呼びはかからなかった。


なのにだ、介護は私だ。


妹は、好き勝手、気の向くまま自由に自分の人生を歩いている。


これで私が何も思わない訳がない。


妹は、仕事をしている。


卒業後、就職をしてずっと同じ会社に勤めている。


大手でもあり、退職金をもらうことを目標にしてがんばっている。


羨ましい限りだ。


そして私はと言うと、国家資格を持ち、スキルがあるとまでは言えないが、母が倒れてから仕事にも付かず

未だに仕事も出来ていない。


もう6年も現場から離れてしまっている。


なのに、いつも決まって言われる言葉が

「仕事してないからええやんか!私は仕事しとるから何もできんやん!」と妹は言う。


私が仕事をしていないから甘えてるのだと。


私、好きで遊んでるのと違いますけど(ー_ー;)


仕事、出来ないやん。ってー。


こんな環境で。。。


本当に愚痴を言い出したらキリがない。


虚しくなるだけー。


妹は、自分の為に生きてる人生を歩んでいる。


私は、いったい誰の為の人生を歩んでいるのかな?


7割りがた、人のために生きてるようなもの。


最近、自分が凄く嫌になる。


心が砂漠。。。



それに、お父さんがたった1つだけ、妹に頼んだこと。


「この子のこと、頼むで。なー、頼むで。」と誰にも誰のことも頼むでなんて

言わなかったのに、たった、ひとつだけ

妹に私のことを頼むでと言い残した。


そのことが忘れられない。


何を思ってそんなことを言ったのか?


わからずにいてる。


でも、そんな言葉すらも右から左へ聞き流した妹。


もうすっかり歩きだしている。


本当に一番早く普通に戻ったのが妹。


2.3ヵ月経った頃に、「もうどうもないの?」と聞いたとき、

「仕方ないやん、死んでもたのに。」てあっさり言われたことがあった時、

とても温度差を感じてブルーになったことがあった。


家族ですら分かち合えない悲しみの感情。


家族ですら心の中の思いを吐き出すことができない。


誰もわからないよね。


わかろうともしない。


お父さんを亡くして、底知れぬ悲しみと苦しみを味わっているのは、私だけ?


母も寂しがって悲しんでるだろうけど、恐らく私以上ではないはず。


ラストチャンスで最後に3日程、退院して帰ってきた時、

冷凍食品だけど、横浜ラーメンというものが好きだった父。


それを何度も「食べたいなー。」て言ってたらしい。


私なら、すかさず作ってあげるのに母は、「全部食べれないやろ?もっと元気になってから食べ。」と言い食べさせてあげなかったと後から聞いた。


私は、それを聞いたとき底知れぬ怒りと悔しさで泣きながら責めたことがあった。


残したら勿体ないという価値観の持ち主。


今まで食欲がなく食べれずにいて、ようやく食が少し戻ってきて食べれるようになった矢先のことだ。


尚更、食べさせてあげてほしかった。


生きてる時に、何の努力もしなかった母が死んでから寂しいやら、何やらかんやらと言っても響かない。


母が協力的でなかった為、思い知ってもらおうと強攻手段に出て、最後の在宅生活の数日間、

1度も覗きに行かなかったことがとても悔やまれる。


行けば私をあてにしてサービスを使わないのが見え見えだったから。


それじゃー、私も潰れる。母も大変。

父も負担がかなりかかる。


だから、目一杯サービスを使ってほしかった。


一人では無理だと何度も助言をしたのにも関わらず、サービスを一切受け付けなかった母。


そのせいで、父は排泄でかなりしんどい思いをし、心臓にかなりの負担をかけてしまったんだと後から思った。


こんなやり取りからも母に対して些か怒りを覚えているのも事実。


あー、本当に複雑な心境だ。


今日のブログは、愚痴ブログになったな。


そう言うときもあるさ。。。

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