親の介護、そして終えて。

親の介護→看とり→そして終えて。

親の介護が始まり疲れてた矢先に介護blogを発見。辛いのは私一人だけじゃないんだと。誰にも言えない相談できない、愚痴りたい!色んな思いをここで吐き出そう!
そして、親の病状の記録を取っていきたいと思います。


そして永眠後の悲痛な思いからの新たな出発。

父が残した遺言?

父が残した遺言?


丁度、去年の今頃、最終出戻り入院したとき、

思ったよりも重症で個室に入った。


ベンチュリマスクという酸素マスクに変更になった。


かなりの勢いで酸素がでるので、本人の呼吸に合わないのもあり、

かなりしんどそうであった。


ハァーハァー言って見てるのも辛かった。


そんな状態の時、ある日、父は妹に言った。


「もう、わし、あかんわ。この子のこと頼むで、なー、この子のこと頼むで。」ってー。


私に妹のことを頼むでって言うならわかる。


だが父は、妹に私のことを頼むでと言った。


三週間程、個室にいたと思うがその間二度も同じことを妹に言った。


後にも先にもその一言だけだった。


遺言めいた言葉を発したのは。。。


その時、本当にもうダメだと思うぐらいしんどかったんだろう。


でも、容態はよくなり大部屋に戻って、緩やかに体力は落ちていくものの、

落ち着いているように思えたのだろうか?


本人もそれから数ヵ月後にこの世から去るとは

夢にも思っていなかっただろう。


死ぬ数日前までは。


だからそれ以外、言い残す言葉は何一つなかった。


ただ死ぬ二日前に、大好きなアイスクリームでさえもいらないと言った。


私や妹に「食べて」と言ったが一口でも食べさせたかったので、

「先生がどれだけ食べたかチェックするから食べられへんわ。

食べれるだけ食べて残したら?」っと言ってその場を誤魔化した。


すると父は、

「もうアイスクリームも食べれんようになったらもうあかんなー。」ってボソッと小さな声で寂しそうに独り言を言った。


そのあと、飲み込むように一気に食べた。


今、思うと無理やり食べたんだろう。


私がすぐ泣くから。



もう、あかんかもしれん、でも食べなあかん!って。。。


その時は、もうあかんなー、って意味が頑張って食べなあかんやん!って意味合いで言ったのかな?と思った。


でも、後から思えばそのあかんなーって言葉の意味は、もうそろそろ息絶えるのかな?って意味だったように思える。




父は、何も言わなかった、何も伝えてくれなかったけど、自分の命が消えかけているのを感じていたんだろう。


なんてことだー。


何も最後の話しも出来なかった。


お別れの言葉も。


思い残すことなかったのかな?


何か言いたかったことなかったのかな?





私も言えなかった。


「お父さんの娘でよかった。ありがとう。」って。



この言葉を言ったのは棺の中の冷たくなった父に言った。


遅いよね。


生きてる間に伝えたかったよ。


ごめんね。お父さん。

朝方、夢を見た。


タクシー乗ってる夢を。


行き先は、父が入院していた系列病院。


私が生まれた病院で、

メニエール病で入院したこともある病院だ。


父が入院していたのは、そこの病院の枝分かれしていった病院だった。


なぜか、父が入院していた病院でなく、私が生まれた方の病院へ向かっている夢。


夢の中では、そこに父が入院していたみたいだった。


しかし、夢の中では次のような内容だった。


タクシーで病院へ向かっている。


父に会える!そう思い飛び乗ったタクシー。


途中でメーターを見ると1450円。


高くつくタクシーだけど、父に会えるならいいや!って。


そう思った瞬間、現実に引き戻された。


そうー。


父はもう死んであの病院にはいない。


高いタクシー代を使って、あの病院まで行ってどうするの?


誰も居ないのに途方に暮れて、病院内をうろうろするの?



そんな自問自答のなか、とっさに運転手さんに「すみません、最寄りの駅で下ろしてください」って泣きそうに言ってた。


その瞬間、体がワープしたみたいに今度は自分の車の助手席の後ろに座らされていた。


前には主人と、あと誰だろう?男性がいた。


私は、どうやら探されていて確保されたみたいだった。


自分の車に乗せられて現実に引き戻された瞬間、泣いていた。


そして、そこで目が覚めた。


夢でも悲しい思いをするのだ。


会いに行くのに死んでしまっていないんだと思い知らされる。そんな夢をー。



そしてこの間、久しぶりに妹と会った。


その時に、「なんでお父さん、死んでもたんやろ?なんでやろ?」と言った瞬間、


「まだそんなこと言うとん?もう7カ月も経つのに。」って言われた。


その瞬間、私は、妹との間に温度差みたいなものを感じた。


私は、ほぼ毎日独り言を言う。


「お父さん。なんで死んでもたんやろ?なんで?」ってー。


あれから一日たりとも頭から離れたことがない。

毎日毎日、父のことを思い出しては胸をかきむしられるような思いをし、

泣いてしまう。



病院でクリスマス、お誕生日に写した写真を見ると思いだし号泣してしまう。


そんなときは、頭がおかしくなりそうなのだ。


発作的なものだね。


頭をかきむしり、声を押し殺して絞り出すように泣く。


数分経つと少し落ち着くのだが。。。


そんな思いをしている私と、「まだそんなこと言うとん?」て言う妹の温度差に些かショックを覚えた。


私は変なのか?


なんでだろう?


なんでこんなに執着?してるんだろう?


あれだけ、鬱陶しくて嫌いだった父なのにー。


なんでこんなにも思いが深いんだろう?


今は、愛しくて愛しくてたまらない。


闘病生活をしていた父の姿が哀れみをかったのか?


哀れだと思い同情していたのだろうか?


確かに可愛そうでたまらない。


死ぬ一年前までは何不十分なく自立した生活をしていたのだ。


それが、たった一年で死んでしまった。


手術をするときは、歩いて行ったのに。


5時間後には、変わり果ててしまった。


あっという間に転落。


せん妄状態が出て、認知症を引き起こし、心不全、不整脈、浮腫、下肢筋力の低下により歩行困難。息苦しさ、その他モロモロ。


片肺から始まり徐々に真っ白になり食欲の低下、歩行不能、失禁、認知がはじまりかける。


一度はよくなり、ご飯も食べれるようになり、歩行も出きるようにまで復活。


しかし、束の間。

最終病院へ逆戻りをして何度も繰り返す肺炎?で両肺も真っ白、肺水腫になる。

12月半ばに余命宣告。1月一杯もつかどうかと言われる。

安定しているように思えたが、3月15日の夕方から37℃過ぎの熱発。


3月16日、夕方から急に酸素量が低下し始めた。

翌朝17日も、酸素が戻らず15時あたりから半にかけ呼吸が変わったとのこと。(下顎呼吸)

15時50分頃、病院から個室に移ったと電話がある。

行くともう意識はなく下顎呼吸で30分ほどでそれも止む。

17時37分、眠るように息を引き取った。


その間、ずっと父の手を握りしめていた。


父は、私に手を握りしめられたままあの世へ旅立った。


どうだろう?


忘れられると思う?


病院から連絡受けて到着してから、わずか1時間10分~15分…だよ。


こんな場面を体験してしまったら、忘れるにも忘れられる訳がない!


あまりにも私には、きつい経験だったみたいだ。


あの光景が頭から離れない。


だから、こんなにも苦しんでいるの?

悲しんでいるの?


こんな悲しい夢を見るの?


一層のこと記憶喪失にでもなりたい。

何も出来ないでいる

止まってる。あれから。。。


何も出来ない。


母の病院の付き添い、晩御飯を作りに行き一緒に食べて片付けて。。。


そして何とかお風呂に洗濯まで。


何とかそこまで踏ん張っては出きるが、これ以上はかなりきつい。


片付けも掃除もー。


したいけど、きつい。


家にいると、お尻に根っこが生えたみたいに動けなくなる。


精神的に、肉体的にきつい。


父がいなくなってから、私という個体の生き物は、バラバラになってしまってる。


もう動けない。


バラバラになって分解されたものは元には戻せそうにない。


何もかも、まともに出来なくなっている。


片付け、掃除、お金の管理、計画、時間の配分、コミュニケーション、


夢も、希望も。


何もかも。



何もかもお父さんが死んでから滅茶苦茶になった。



頑張ったのに、私。


お父さんの介護、看病。


生きてて欲しかった。。。