親の介護、そして終えて。

親の介護→看とり→そして終えて。

親の介護が始まり疲れてた矢先に介護blogを発見。辛いのは私一人だけじゃないんだと。誰にも言えない相談できない、愚痴りたい!色んな思いをここで吐き出そう!
そして、親の病状の記録を取っていきたいと思います。


そして永眠後の悲痛な思いからの新たな出発。

本当の心は。。。

本当に死んでしまわないとわからない。


生きてる時には、わかってるようでわかってないんだー。


お父さんが死んだ時、私は「お父さんの娘でよかったよ。」って棺の中のお父さんの耳元で囁いた。


お父さんが死んで何年も嘆き悲しんでお母さんに辛く当たってた。


なのに。。。


お母さんが死んでから私の心の映像はすかっりお母さん一色に塗り替えられてた。


それからは、お母さんのことばかり。。。


そして気づいた。


ふたり死なれてやっぱりお母さんなんだとー。


今は、やっぱり死ぬ前の感情に戻りつつあるかもだ。


私は、やっぱりお父さんのこと、あまり好きでないのかも?とー。


やはりお父さんの娘に生まれてきたことを心ばかし良く思ってないかもと?


そして、お母さんのことが1番大事に思ってたってことー。


お母さんが生きてる時は、お父さんのこと死んでしまって嘆いてた。


闘病生活中、色んな問題解決をするのにストッパーになってたお母さんに腹立ってた。


そのせいで、お父さん、私達姉妹はしんどい思いや、ストレスを感じてた。


そのせいもあってお父さんが死んだ後、船の話を思い浮かべてみた。


その船には1人しか乗せれなくて1人しか助けられない。


お父さん?お母さん?どちらを助ける?とー。


私と妹は、すかさず「お父さん」と答えた。


でも、お母さんが死んでお父さんとはまた違った悲しみや苦しみ、言い表しようがない感情に押し潰され苦しんでいる。


そこへ、この質問を自問自答してみた。


間違いなく「お母さん」なんだとー。


両方に死なれて思い出されるものは、まだ学生だったころの父親の嫌な思い出の記憶だった。


そのことで母が泣かされてきたこと。


それを見て、私は父親が好きではなかった。


そして、父親との確執。


結局、闘病生活の1年間が全てだったように思えていたが元に戻った。


私はお父さんのこと、あまり好きでないのかも?


お母さんのことがやっぱり大切なんだとー。


お父さんが死んだ時、お父さんのことを愛おしく思っていたのに、

お母さんが死んでしまったらそんな思いはあまり感じられなくなってた。


それは、お母さんを失ったショックが鈍らしてるのだろうか?


わからないけど。


とてと複雑な気持ち。


でも、間違いなく船にはお母さんを乗せてしまうー。


勿論、究極の選択だけど。


1人という設定だからー。


どちらかと言えばの話だよ。


両方助けたいに決まってるけどー。


それでわかるのかな?


心理がー。


お父さんよりお母さんってー。


なんだったんだろう?


あの悲しみに明け暮れてた4年間は?

親子

何を言われようが、何をされようが、


ようは自分がその事をどう捕らえるかどう解釈するかで変わる。


捉え方ひとつで答えが変わる。


人はされたことは覚えているが、したことは結構忘れてることが多い気がする。


または、知らずにやってたってこともある。


だから誤解も生じるのだろう。


生じて当然。


だって個々皆別々で、皆違うから。


十人十色って。


だから親子関係も様々。


同じことが起こっても、捕手が違うと結果も違うんだろうと思う。


私は、父親の心ない言葉を発せられ思春期の真っ只中に、人生最大の言葉に傷ついて家出をした。


そこからが始まりだ。


私の転落人生。


そこから親子関係にひびが入り確執が出来た。


母親もそう。


それまでは、私の見方と思っていたが、手のひらを返された。


それまでにも、今で言う虐待じゃないのか?と言うこともあった。


父には口答えをすると、殴る蹴るの暴行、テーブル、椅子は飛んでくる。


恐ろしかった。


怒らすと手がつけれなくなるし、母もそれで私に怒ってくるので、

どれだけ理不尽なことを言われようが言い返したいことがあろうが、何も言えず唯唯握りこぶしに力を込めて唇を噛んだ。


親から傷つけられたこと、沢山ある。


書きたくないから書かないけど。


当時は恨んだ。憎んだ。20過ぎるまで。


でも、ある日ふっと思った。


親を憎んで恨んで生きてくことが、自分にとって不幸なことだと。。。


だから止めた。憎むこと。恨むこと。


それから私の親に対するサービス精神が始まった。


母にはよく貢いだ(笑)


あまり裕福な家庭ではなかったので、母が不憫に思えて。


23の時、交通事故にあいかなりまとまったお金をもらった。


でも、当時、お金はいらないから元の体に戻してよ!と嘆いた。


ムチ打ちで長らく苦しんだ。


今は荷物持っただけで肩凝りが酷くなり肩パンパンの頭痛で吐き気がするぐらいで、洗髪もまぁ出きるようになってるから大丈夫だけどね。


その当時は、洗髪もできないくらい頭を下に向けるのが出来なかったし、腕も上がらなかったなー。


そんなことがあって、その貰った示談金で母に初めて高価なものをプレゼントした。


いつかはしてあげたかったのだ。


指輪をー。サファイアの指輪。


誕生石だった。


父には買って貰えなかっただろうこんな高価な指輪はーと。


もうその時は、1度目の結婚を20でしていたときだった。


ブランド物のバックとかもよく買ってあげた。


そうやって母親との関係は、上部では修復されていってたが、

父親とはこの度、病に倒れて死ぬまでの1年間を迎えるまでは修復出来なかった。


だから、父親が死んでも泣かないだろうとずっと思ってたけど、

スットコどっこいだった!


4年かかった。立ち直るまでに。


色んなことがあった。


沢山傷つき沢山泣いてきた。


親子関係で。


父親らしくない父親と母親らしくない母親。

でも、所々は優しい親らしい顔もあったけど。


まぁ、色んなことがあったけど、私は親を愛していると思う。


死なれて尚更身に染みる。


父親が病に倒れた時から、恨み憎しみは雪解けのように消えていった。


癌と聞いて泣けた。


目の前で苦しんでいる姿を見て泣いた。


ご飯が食べれなくなってきて泣いた。


余命を聞かされて泣いた。


死んで4年間泣き続けてきた。


母親もずっと大事で必死にサポートしてきてたが、根底に自分でもわからないモヤモヤがあることを感じていた。


長生きしてね。と言いながらどこか冷めてる自分を少し感じ違和感を覚えていた。


でも、死なれてわかった。


やっぱり愛してたんだということ。


母親とは、ずっと仲良しできてたけど、やっぱり私の心の中にはされたことの悲しみや憎しみ、悔しさ色々複雑な物があったんだ。


でも、それらに蓋をしてずっと仲良し親子をしてきてたんだ。てこと。


でも、やっぱり何をされても何を言われてもお母さんが大好き!

居なくなったらちゃんと生きていけないよ!ってことに気づかされたんだよ。


最終的には水に流してる。


許してる。


わだかまりもなくなってる。


色んなことがあって最後は素敵で終われるならそれが幸せなんだと。


親を憎むこと、恨むこと、止めれてよかったと思う。


だって、そう思い続けてたら自分は不幸だと思うから。

相田みつを



画像お借りいたしました。