親の介護、そして終えて。

親の介護→看とり→そして終えて。

親の介護が始まり疲れてた矢先に介護blogを発見。辛いのは私一人だけじゃないんだと。誰にも言えない相談できない、愚痴りたい!色んな思いをここで吐き出そう!
そして、親の病状の記録を取っていきたいと思います。


そして永眠後の悲痛な思いからの新たな出発。

母の最期

毎週火曜日、夕方ごろに迎えに行く。


金曜日の夜に食事を終えて遅めの送迎で家へ送り届ける。


そういう二重生活を去年の6月から開始した。


母の為に家を買った。


将来、完全に受け入れられるように、受け皿を用意したのだ。


でもまだ、自分の出来ることがあるから、QOLをさげたくなかったし、

週の半分は、デイケア週2、訪問介護で掃除を週1でサービスを受けていた。


その為に帰宅をさせていた。


しかし、コロナが流行り大事を取り全てのサービスを休止した。


それが悪かったのか、脚力もやや弱った感じもしたし、認知が進んだ気もしていた。


でも、コロナにかかって死ぬよりましと思いサービスの休止を続行した。


なので、完全に私の元で生活をしていてもよかったのだが、

出来ることがあるのに、私の所で何もせずにいたら出来なくなる。


それが怖かったのと、私も適度に離れた時間も必要とし、

サービスがなくても家へ送り届けていた。


そんな矢先の出来事だった。


いつものように金曜日、遅めの送迎で家まで送った。


いつも帰り間際、家の前で手を握り、

「またね、寂しいな。寂しいな。」と言って強く手を握りしめる母だった。


その日は、いつになく寂しいなを3回も言った。


その時、少し後ろ髪を引かれた気がした。


そして玄関を入る前に両手でいっぱい手を振りながら家に入っていく母。


私も同じように両手でバイバイと振る。


家に入ったのを見届けて車を発進させ家路と向かう。


そんなやり取りをしていた。


その時も、両手でバイバイと振る時間がいつもより長く感じていた。


手がだるいんですけど、って小声で言ったのを覚えている。


今に思うとそれも何かの前触れだったのか!?


そして翌日、行く予定がなかったが前日の寂しがった母のことも気になり、

美味しいコロッケも買ったついでに連絡もせず立ち寄った。


別れてから16時間後の出来事だった。


鍵も持っていなかったのでチャイムを鳴らした。

インターホーンに出たその直後に転倒した。


どのような経緯で転倒したかはわからない。


でも多分、スリッパを履こうとして体がよろけて右側に転けた。


転け方が悪かった。


折れた部位が悪かった。


大腿骨頸部骨折だった。


持病で心臓も悪かった。


心房細動で不整脈もち。

そして9年前に心筋梗塞をしている。


その後の経過で腎臓機能もかなり低下していた。


そして、プレドニン長期大量投薬により副作用による大腿骨頭壊死。


全てが重なり命取りになった。


転倒後、2時間近くの救急搬送で検査結果入院となった。


コロナで面会も出来ないとのことで寝たきり、認知も進み大変な事態になると思っていた。


なのに、翌朝、呼吸も浅く排尿も止まり、血圧も低下し始めたのでICUへ入ると連絡が入った。




直ぐ様、駆けつけるも危険な状態と言われ、造影剤を通し検査をして手立てを考えると説明をされ母がICUからやっと出てきて顔を観ることが出来た。


意識がなかったが、出てきた瞬間少しだけ意識が戻りうっすらと目が空いた。


「お母さん、私!わかる?わかる?」と話しかけると軽くうなずいた。


「頑張りよ!」と手を握りしめると軽くうなずいた。


そして検査室へと運ばれた。


それから、しばらくして医師から説明を受けた。


1回心臓が止まって蘇生で心臓マッサージをしてとりあえず戻したが、もうそういった感じを繰り返してもダメだと思うと。


そう話している間にピッチがなり、また止まったとー。


泣いてすがって助けて下さい!と何度も言った私に、じゃあもう一回だけ蘇生を試みるが、次は出来ないと言われた。


医者の立場から3回は出来ないとー。


そうして、蘇生後、母に会えた。


1時間もあっただろうか?


モニター見ながら手を握りしめて、いろんなことを言い続け、こちらへ引き戻そうと必死で訴えた。


そして血圧が70を切る、また70を戻るの繰り返しを見ながら半ば諦めかけてたその時、

毎日日課にしていた歌をうたい始めた。


失語症になりかけてたので、いやもうほぼなっていたが、歌だけはすんなり歌えたのだ。


リハビリのつもりで手拍子を入れ歌わしていた。


どんぐりコロコロ。

ドレミのうた。

幸せなら手をたたこう。


この3曲が定番だった。


これを、息を引き取るまで肩を軽く叩き、リズムをとりながら歌い続けていった。


まるで一緒に歌ってるかのように見えた。


そして、ゆっくりゆっくり血圧も静かに下降し始めて、最期の呼吸を一息ついて眠るように逝った。


父の時も同じように手を握りしめ息を引き取り、その後エンジェルケアをした。



母も同様、その後、エンジェルケアも出来た。


私は、両親とも手を握りしめ看とり、エンジェルケアをして最期の幕を引いた。


こうやって私の親の介護生活の幕は閉じられた。


9年と3ヶ月。


長いようで短かった。


今思うと大したことは出来ていない。


でも、これが私の器量と力量だ。


私の小さな器なりに、こぼれんばかりの状態までやってきたことには違いない。


父も母も満足してくれただろうか?


本当は、もっともっとしてあげたかったのにー。


転倒しなければ、死なずにすんだ。


転倒しなければ、今頃まだ生きていた。


この事だけが諦めきれず納得出来ず、私の胸を締め付ける。


不慮の事故。


これ程、納得できず、諦めつかないことはないとつくづく思った。


まさか、こんな別れ方になるなんてー。


お母さん、ひどいよ。


急に逝っちゃうなんてー。

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